幼い頃から、遠い灯りを見ると、
何か惹かれるものがあった。
心がウキウキしてきて、
夢や希望がふくらんでくるんだ。
ところが昼間そこに行ってみると、
別に大したところではなく、
パチンコ屋のネオンだったり、
カラオケ店の看板だったりする。
人生のイベントだって同じようなものだ。
そこにたどり着くまでは、
遠い灯りを見るように
心を弾ませているのだが、
着いてしまうと何のことはなく、
そこには日常生活が待っているだけだ。
たとえば修学旅行がそうだった。
行くまでは何かと心がウキウキして、
期待に胸をふくらませたのだが、
ふたを開けてみると何と言うことはない。
最初のうちこそ気も浮かれているが、
そこにいるのはいつもの友だちや先生なので、
そのうち浮いた気分も吹き飛んでしまった。
「つまりは場所を変えた学校生活じゃないか。
そんな中でいったい何を期待していたんだ」
などと考えて一人興ざめしていたものだ。
たとえば成人した時がそうだった。
それまでは二十歳になると、
何かが待っているような気がして、
心がワクワクしていたものだ。
それでもって期待に胸を弾ませながら、
二十歳の時を迎えたわけだ。
いちおうその日は周りが祝ってくれたけど、
その日を過ぎると何のことはない、
それまでの生活の延長が待っていただけだった。
遠い灯りはあくまでも遠くの灯りであって、
決して足下を照らしてくれるわけではない。
とはいうものの相変わらず、
ぼくは遠い灯りに憧れて、
今でもウキウキワクワクしているんだ。